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モータースポーツ

2008年5月 8日 (木)

Grazie,GILLES

ありがとう、ジル・・・Simacherです。

今日は、ジル・ヴィルニューブの命日です。1982年のこの日のベルギーGP予選で、彼は亡くなりました。

デビューは77年イギリス。フェラーリドライバーのイメージが強いジルですが、このときはまだマクラーレンの3台目に乗っていました。そのレースでの走りっぷりがエンツィオ・フェラーリの目に留まり、晴れて赤組に引き抜かれます。フェラーリで決勝を走ったのは同年カナダGPが最初(ラウダがチームとの確執でフェラーリを離れた事による空席埋め的な意味合いもありましたが)。しかし、77年F1・イン・ジャパンで、ピーターソンのティレルに追突した彼は、立ち入り禁止区域にいた観客数人を巻き込む死亡事故を起こします。純粋なレーシングアクシデントで、観客側に責任がありましたが、当時の日本はまだモータースポーツへの理解がなく(今でもある意味無いですが)、ジルは書類送検された上に入国禁止を食らいます。

翌78年カナダGPで初優勝。熱い走りで当時エースだったチームメイト、カルロス・ロイテマンがチームを追い出されます。新人の起用にあまりいい顔をしないティフォシも、彼のことを認め始めます。

79年は彼のベストシーズンとなりました。南ア、アメリカ西、アメリカの3つのGPで勝利を挙げ、一時チャンピオン候補と目されますが、結局ジョディ・シェクターのNo.2としての立場を守り、4pt差でランキング2位(本人いわく「チャンピオンは獲りたかった」のだが)。フランスGPで、ルネ・アルヌーと熾烈な2位争いを繰り広げ、彼のベストレースのひとつに数えられるようになります(激しい接近戦といえば92年モナコですが、それよりもインパクトがあったといわれています)。

80年、3年前からロータスが導入した「グランドエフェクトカー」(サイドポンツーン部分をウィング形状にすることにより、車体下部に真空地帯を作り出し、車体全体でダウンフォースを稼ぐ車。ウィングカーと同義。空気を遮断する部分が少しでも損傷するとコントロールできなくなる上に、マシンが段差を拾って跳ね上がると、継続的にぴょんぴょんはねる事になってしまい非常に危険。98年ルマン、CLK-GTRの空中3回転もこれが原因。またドライバーの負担が大きい事もあり、F1では禁止された。今でもIRLやGP2では使用されている。余談だが、殆どのレーシングマシンに装着されているディフューザーは、部分的にこのグランドエフェクトを生み出すシステムになっている)の構造をフェラーリも使用。しかしグランドエフェクトカーとフェラーリのフラット12は相性が悪く、うまくダウンフォースを稼げずに大苦戦。予選落ちまで喫する散々なシーズンに。それでもジルはあきらめずに、ティフォシたちのために激走。シェクターがF1を引退し、かわりにディディエ・ピローニが加入。念願のフェラーリエースになります。

81年、エンジンはターボ化されましたが、シャーシがウ○コでマシンの挙動が安定せず、総合バランスの悪いマシンに。しかし、モナコとスペインで勝利を挙げ、ランキング7位。また、地元カナダGPで、フロントノーズがめくれて視界がさえぎられ、さらには終盤でノーズがまるごと抜け落ちますが、そのまま走って3位。

82年、ようやくまっとうな新車126C2を手に入れ(ハーベイ・ポスルスウェイトの手による)、自信満々でシーズンをスタート。しかし、第一・第二戦はリタイア、第三戦は失格処分を食らい、第四戦サンマリノを迎えます。しかし、誰もこのGPが悲劇の伏線になるとは思いませんでした。

FISA系チームとFOCA系チームの対立により出走がFOCA側の14台のみとなったサンマリノ。3位のアルボレートに1分近く差をつけ、ジル-ピローニの順でランデブー。燃料に不安があったチーム側は2台にペースキープを指示。その後、「ジルが先頭」というチームオーダーが存在したにもかかわらずピローニがジルをオーバーテイク。ジルは「台数の少なくつまらないレースで観客を楽しませるためのパフォーマンス」と捉え、1度は抜き返しましたが、レースがファイナルラップに差し掛かった時点でピローニが再度オーバーテイク。ジルはペースを上げて懸命に抜き返そうとするも届かず、結局ピローニ-ジルの順でゴール。ジルは激怒します。両者の確執はここで表面化しました。

続くベルギーグランプリ、ゾルダー。予選2日目、ピローニにタイムで上回られたと聞くなり、ジルはコースイン。タイムがなかなか更新できずにコースを回るジルは、コース後半、森のセクションにさしかかります。S字から右コーナーへ続く複合カーブで、ここで速度を落とすと大きなタイムロスになります。全速力でアタックするジルの前に、ヨッヘン・マスのマーチがスロー走行ではしっている状態で、最初の左、ジルはアウトラインから抜こうとしますが、マスはインを譲ろうと、ジルにかぶせるようにアウトへラインを移します。急速に2台の間合いが縮まります。よけるための時間はあまりに短すぎました。

―ジルのマシンが空中で大きく弧を描き、マスのマシンを飛び越えます。衝撃でシートベルトがちぎれ、ジルはマシンから放り出され、コース脇に壊れた人形のように投げ出され・・・・・・

チャンピオンに後1歩まで肉薄し、1ラップに賭ける執念とは何ぞやとの回答を見せたフェラーリドライバーは、頚椎骨折で当日午後9時ごろ、天に召されました。15年の後、父親が一生をかけても果たせなかった夢を、息子ジャックが達成します。彼との確執を取り沙汰されたピローニは、実はジルに対して友情すら感じており、その後カナダでPPを取った際、「此処にいるべき人間がいない」といって涙しました。しかし、その後のドイツGP。大雨に見舞われた予選でピローニはプロストのマシンに乗り上げ、両足を複雑骨折し、F1ドライバーとしてのキャリアを絶たれました(プロストの雨嫌いの原因)。その後、87年にパワーボートの事故で他界しています。2人の抜けた後に加入したマリオ・アンドレッティとパトリック・タンベイの尽力で、コンストラクターチャンピオンは獲得しましたが、フェラーリにとっては暗黒の1年となったのです。

なお、自分はこの頃はまだF1よりWRCに興味があったので、F1は殆ど見ていませんでしたが、F1好きの知人から情報を入手しました。

ジル・ヴィルニューブ 1950年1月18日生~1982年5月8日没

Grazie,GILLES・・・

2008年5月 6日 (火)

スーパーアグリ、無念のF1撤退

大変な事になりました・・・Simacherです。まずは下のサイトを見てください:

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080506-00000023-nks-moto

アグリはデビューしたときから好きでした。夢の純国産チーム。途中で井出がクビになったり、SSユナイテッドに夜逃げされたり、かの悪名高きCEO、クソ肉揚げ・ニックフライにいぢめられたりしてたけど、特に去年のパフォーマンスはすごかった。スペインGPでの琢磨の激走、初ポイント獲得。続くカナダGPでの、琢磨の魂のオーバーテイク。どちらも、見ているものに感動を与える、真の意味でのレースでした。

しっかしまあ、ホント肉揚げはこの手で絞め殺してやりたい。なんでまたマグマと「99パーセント合意」にまで達したのにそれを破談させなきゃいけないわけよ?キサマはアグリを見殺しにしてるわけか。おい。アグリに「技術支援うんぬん」っていったのはホンダ自身だぜ?こんなことしてていいのかよ?しかもキサマ、FOMに勝手に「トルコでSAF1は走らん」なんて言う権利を持ってんのかよ!?(通告したのがホンダ本社ならわからなくも無いけど)ニックフライなんか死ねばいいのに。(このあたり、日本語が壊れてますが、あくまで愚痴です)

そもそもことの発端は05年バトンのわがまま。不振だったホンダに見切りをつけてウィリアムズ里帰りを発表したまではよかった。ところが、土壇場でウィリアムズが来季(06年シーズン)のBMWエンジンを喪失。ここでバトンは、なんと違約金を自腹で払い、BAR(ホンダ)残留を希望。すでにバリケロの枠が決まっていたため、琢磨は半ば追い出される形でBARを後に(一応、テスターとしての残留も提示されたけど)。その琢磨を走らせるためのチームがSAF1でした。

アグリさん、琢磨、デビッドソン、井出、左近、モンタニー、ダニエル・オーデット以下チームスタッフのみなさん、そして逆境の中でもSAF1を見捨てなかったスポンサーのみなさん、夢と感動をありがとう!!! アグリさん、SAF1を手放してもS-GTチャンピオンのARTAがあるさ、ファンは永遠にあなたの味方だ!

記念に、SAF1ペパクラでも作ろうかと思っています(またかよ)。これで現在、ペパクラ2丁掛けということになりますが、アグリモデルを優先していこうと思います。

最後に一言。アグリさん、またF1に戻ってきてね!私たちはあなたを待っている!!We're waitin' for you!!!

2008年5月 1日 (木)

追悼 アイルトン・セナ

汝の御霊は永遠に・・・Simacherです。

「何すかその変な挨拶は?」

変?

「いや、変といえばいっつも監督は変な挨拶しかしてないけど・・・」

おいおい。なんか今聞き捨てならない事をいわれた気がするが、、、

「あ、いや、なんでもないです。忘れてくだされ」

まあ、前置きはこのくらいにして。今日は5月1日。この日といえばメーデー(マレーシアでは祝日)だとか、この日といえば5月の最初の日だとか、いろいろ言う人は多いでしょうが、5月1日はモータースポーツ界に大きな影を落とした日でもあるのです。

そう、アイルトン・セナ。1994年5月1日のF1・サンマリノGP、彼は天に召されました。その前後の状況を少し。

4月29日の予選1日目。ヴァリアンテ・バッサでジョーダン・ハートを駆るバリケロが縁石に乗り上げて飛び上がり、タイヤバリアの上端に接触。弾みで空中アクロバットをやってのけた後、天地逆になって着地。鼻などを骨折したバリケロは、腕をギプスで固められてしまい、運転が不能に。決勝は欠席することに(なお、マレーシアでは予選1日目は中継していなかったので、翌日=予選2日目の冒頭で知りました)。

4月30日の予選2日目、GP最初の死者が出ます。シムテック・フォードに乗ったロランド・ラッツェンバーガーが右緩コーナー・ヴィルヌーブを曲がりきれず、アウトのウォールに激突。モノコックはかろうじて原型をとどめていたものの、頭蓋底骨折を起こしていたラッツェンバーガーはほぼ即死の状態で、予選は40分を残して赤旗中断。テレビの前で彼の死を知り、衝撃を受けました。F1の安全神話が、音を立てて崩れ去った瞬間でした。この時点で、友人数人に電話。「今、ラッツェンバーガーが亡くなった。」反応はいずれも「嘘だろう」、「信じられない」という、自分の感想と同じものでした。

そして、アウトドローモ・エンツィオ・エ・ディノ・フェラーリは、F1史上最も暗黒な日を迎えます。前日の予選は、生涯最後、65回目のPPを獲得したセナ、以下順にシューマッハ-ベルガー-ヒル-レート。深夜放送のTVにかじりつく自分。レーススタート直後、グリッド上で止まっているレートのマシンが映し出されます。次の瞬間、後方から突進してきた1台のマシンが避けきれずに追突。衝突したのはロータス・無限ホンダのペドロ・ラミー。両者に怪我はありませんでしたが、破片で観客8人が怪我。SCが投入されます。以降、5週にわたってSCラップ。

再スタート後のセナを後ろから見ていたシューマッハは、こう証言しています。「リアの車高がかなり落ちていた。セナはマシンをコントロールするのに苦労しているようだったが、とてもあんな重大なトラブルにつながるようには見えなかった。」

そして、運命の7週目。セナの後ろにシューマッハがぴったりと食いつきます。その差約1秒。シューマッハのオンボードカメラには、点のようなセナのマシンが映し出されます。その点が少し右へよれたような気がして、「はて?」と思ったそのとき。セナのマシンにパンしたカメラは、とんでもない光景を全世界へ発信していました。タンブレロコーナーを曲がりきれずに直進したセナは、コンクリートウォールに激突。パーツがざくろのように弾け散り、右半分が大破したウィリアムズ・FW16。黄旗を持ったマーシャルたちが駆け寄り、微動だにしないセナをマシンから引き出します。その後、ヘリコプターで病院へ運ばれたセナですが、深夜1時40分(現地時間6時40分)。一縷の望みを打ち砕く発表がコメンテーターからなされます。「非常に残念な報ですが、アイルトン・セナが天に召されました・・・。」深夜にもかかわらず、友人たちに片っ端から電話しまくります。「セナが死んだ・・・。」翌日の学校でも、かなり大きなニュースになっていました。新聞はトップ記事で紹介するし、セナ特集を組んだりするし、関係者らに独自のインタビューをするし。テレビでも、セナの特別番組が放送されました。

次に自分のセナに関する思い出を少し。私がF1を見始めたのはセナが登場した後でした。そのときはすでに88年や90年のセナは知っていて、ファンになり始めた矢先の出来事でした。92年のモナコGPや93年のオーストラリアGPも見ていました。セナは、他のドライバーたちが持っていない「何か」をもっている―それがファーストインプレッション。現在、セナの記録は殆どミハエル・シューマッハによって塗り替えられ、絶対に追いつけないといわれた65PPの記録すら、彼が更新しました。もちろん、それが強さというものでしょうし、だからこそみんなミハエルが好きなんでしょう。でも、記録をどこまで塗り替えても、それは単なる数字の羅列です。彼の持つレコードを更新しても、彼自身には絶対に追いつけない。アイルトンは、トップに立ったまま、天国へ逝きました。それは「アイルトンには誰も追いつけない」ことを象徴していると思います。シューマッハが00年イタリアGPでセナの41勝に並んだ時、彼は記者会見で泣いていましたが、それは「記録」という形でセナに並んだことを感じたからではないでしょうか。逆に言えば、記録更新という形でしか、セナに追いつき、追い抜くことはできない、ということです。

最後に、セナと関係のある曲。佐藤準の「A Latchkey」は、93~94年の日本のF1中継でエンディングとして使われていた曲で、まるでセナの死を予期していたようです。ピアノ主体のボーカルレスで、心にぐっと来ます。T-SQUAREの「FACES」は、同じくF1でアイルトン・セナが優勝したときに流れていた曲です。これも、セナのイメージに合っている曲ですね。ちなみに、筆頭ライバル、アラン・プロストの曲は「明日への扉」です。なぜマレーシアの中継の曲が無いのかというと、、、単にわかんないだけです・・・orz

「A Latchkey」:http://www.youtube.com/watch?v=CMnoKPyncLA

「Faces」:http://www.youtube.com/watch?v=n39Mh-0bEp0&feature=related

「明日への扉」:http://www.youtube.com/watch?v=QaSLrSs9Xpw&feature=related

そして、現在、「セナもの」ペパクラを画策中です(いつ完成するかわからんですが)。お楽しみに。

Thank you AYRTON, Goodbye SENNA

Thanks, for everything you'd teach us

We'll not forget you, forever...

Rest in Peace

2008年4月28日 (月)

スペインGP 決勝

やったぜ赤組!Simacherです。以下レポート。

予選では、PPキミの後ろに地元のアロンソがつけるという番狂わせ。3番手マッサ、4番手タレ目、5番手黒こげ。

マッサがスタートで眉毛をパス。3コーナーでスピンしたスーティルにフェテルが突撃し、両者リタイア。6週目、今度はピケとブルデーが接触し、やっぱり両者リタイア。7週目にデビッドソンがラジエーターに穴を開け、リタイア。

21週目、トップ陣のピットインでトップに立ったコバライネンが、高速「カンプサ」で直進、クラッシュ。イモラの悲劇を連想して一瞬ヒヤッとなりましたが、幸い本人は無事。33週目、26週目のピットアウトでフィジケラと接触し、ノーズコーンをぶっ壊したバリケロがリタイア。出走256回目の完走はなりませんでした。34週目、軽タンク作戦が失敗して順位を落としながらも健闘していた眉毛がエンジンブロー、リタイア。地元ファンの目の前です。去年のイタリアGPのマッサみたいな心境だったのかな? さらに41週目、今度はロズベルグがエンジンから白煙を噴き、リタイア。

最終的な結果は、キミ-マッサ-黒こげ-タレ目-オージー-バトン-中嶋-つるーり。コバライネンの事故でSC中にピットインしたヒゲは、10秒ペナを食らって9位。琢磨は一時9位を走行するなど健闘したが13位フィニッシュ。

2008年1月22日 (火)

トイボネン

今頃何いってんだと言われるかもしれませんが、5月ってレーサーの命日がおおいですね。例えば、1日にアイルトン・セナ(F1)と若井伸之(WGP)、2日にヘンリ・トイボネン(WRC。なお、この時彼のナビゲーターだったセルジオ・クレストも道連れに)、8日にジル・ビルニューブ(F1)といった具合です。今日は、ヘンリ・トイボネンとGr.Bの話をしたいと思います。

彼の悲劇を語る上で必ず出てくるのが、グループBの歴史です。グループBは、当時WRCで使われていたグループ4レギュの代替案として発案されたもので、連続する12ヶ月にベース車を200台生産すればいいことになっており、車屋さんへの負担軽減の節が多いです。当時(1982年)はまだオイルショックが後を引きずっていたんですねえ。ということで、82年はGr.BとGr.4の新旧混走シーズンになりましたが、しょっぱなから大乱戦!4WDの概念をはじめてラリーに持ち込んだアウディは、ハンヌ・ミッコラ、ミシェル・ムートン、スティグ・ブロンクビストのトリオをアウディ・クワトロに乗せて、Gr.4のオペル・アスコナやランチア・ラリー037を粉砕!しかし、奮戦の甲斐なく、ドライバーズタイトルはオペルのワルター・ロールに奪われました。

83年はGr.B車両のみでの競技となり、ランチアとアウディの一騎打ち。最終的に、ランチア5勝、アウディ5勝のものすごいシーズンに。おもしろかったなー。マニュファクチャラータイトルはランチア、ドライバータイトルはアウディのH・ミッコラ。

84年は、前年とは打って変わってランチアの戦闘力がガタ落ちの様相を呈し、ツール・ド・コルセで1勝したのみ。アウディはほかに目立った敵もおらず、シーズン半ばですでにドライバー・マニュファクチャラータイトルを取ってしまい、つまんないシーズンに。まあ、シーズン途中にプジョーが205ターボ16とアリ・バタネンを引っさげて途中参戦した(しかもなかなか強かった)から救われたが。

85年は、プジョーが圧倒的な強さを発揮し、ダブルタイトル。車の外見はもはや車よりも戦闘機に近くなっていきました。1トンあるかないかの車体に600馬力もある強烈なエンジンをのっけて走るBカーは、次第に制御を失い、暴走し始めます。ツール・ド・コルセで、ランチア・ラリー037を駆るアッティリオ・ベッテガが立ち木に激突、事故死。アルゼンチンではプジョーのエース、アリ・バタネンがあろうことか直線でクラッシュ、瀕死の重傷を負います。Gr.Bカーは、すでにパワーのみが先走り、ドライバーの手に負えないような危険なマシンになっていたのです。少なくともここで責任者のFISAが何か手を打っていれば、トイボネンも死なずにすんだ、と考える事もできます。しかし、熱狂的な観客たちの支持もあり、発展していくWRCの象徴としてグループBはさらに先鋭化していきます。

1986年、前年の最終戦でデビューしたランチア・デルタS4が、85年最終戦・86年開幕戦ともに優勝し、誰もがランチアの復活を予感しました(私もそのひとりです。はい)。しかし、第2戦ではプジョーのカンクネンが優勝。互角の戦いになるのは誰の目からも明らかでした。しかし第3戦、またもや悲劇が起こります。ポルトガルで行われたラリーで、フォード・RS200を駆るJ・サントスが、コースに飛び出した観客を避けようとして観客席(というか人だかり)に200キロで突入し、死者3名、重軽傷者40名以上という大惨事になってしまいます。しかし、前年にベッテガが亡くなり、さらにバタネンが大怪我をし、観客が死傷しても、FISAは根本的な対策を何一つ採りませんでした。

そして、1986年ツール・ド・コルセ(TDC)。初日に圧倒的な差をつけて、トイボネンはラリーをリード。しかし、「このラリーはすべてがうまく行っているのに、何かおかしい。問題がおきたら、きっと死ぬだろう。」と、自らの運命を暗示するような発言を残します。

1986年5月2日、TDC2日目、SS18コルテ・タヴェルナ。スタートから曲がりくねった道を行き、7km前後の地点にある緩い左コーナー。トイボネンは、なぜかそのコーナーを直進し、コースオフ。崖下へ転落したデルタS4は、車体下に燃料タンクを配置する構造と、ケブラー樹脂製のボディー、マグネシウムホイールが災いして、瞬く間に爆発炎上。後続のB・サビーとM・ビアシオンは車を止めて救出を試みたものの、崖の下は木の枝に覆われ、脱出は不可能でした。救援隊がやっとこさ駆けつけた時には、トイボネンのデルタ・S4はすでに骨組みを残して全焼。ヘンリ・トイボネンと彼のナビゲーター、セルジオ・クレストは帰らぬ人となりました。さすがのFISAもことの重大性に気付き、86年限りでGr.Bのホモロゲを取り下げ、86年をもってGr.B時代は終わりを告げたのです。

ヘンリ・トイボネン(FIN) 1956年8月25日生~1986年5月2日没 享年29

セルジオ・クレスト(USA)1956年1月19日生~1986年5月2日没 享年30

合掌・・・

2007年11月 3日 (土)

アロンソ

「アロンソ、マクラーレンとの3年契約を途中解除!」

昨日、マクラーレンの発表だ。彼の契約は09年まで残っているそうだが、違約金などは一切発生しないとのこと。

さて、彼はどこへ移籍するだろうか。いまさら赤組の門をたたくとは思えないし、かといってBMWにも行けない(契約がすでに決まっている)。SAF1にスペイン資本が入るという噂があるのだが、もし本当ならアグリへいく可能性もゼロではない。オール日本ならではの自由奔放な経営体制がなくなるのは少々悔しいが・・・

やはり有力なのはルノー、赤牛、トヨタの3チームだろう。その中でも、(あくまで単純計算で)比較的可能性の大きいのがトヨタだ。ラルフが離脱を発表しており、来年は空席がひとつできる。もっとも、今シーズンのような出来のマシンを彼に与えていては、アロンその才能は発揮されないが。

そして、運良く彼が自分をチームの一員とするだけのカネとポテンシャルをもったチームにめぐり合ったとしよう(ルノーあたりか?)。しかし、ここで問題になるのがチームメイト。チームメイトを軽く見たばっかりにズタぼろにされた今シーズンのようなことを繰り返したくはないだろうから、ルノーに移籍するとなると才能のありそうなコバライネンをどっかに追いやることになる。ルノーにしてみればフィジケラよりコバライネンを取りたいだろうから、アロンソはルノーにはできるだけ行きたくないと思っているだろう。彼がポジションをあげるのをサポートし、チームオーダーにも文句ひとつ言わない。こんなチームメイトが必要だ(いるのか、そんなヤツ?)

なんだか話が難しくなってしまったが、ここで彼の移籍の原因について少し考えてみたい。いうまでもなく、一番の原因はデニスがハミルトンの肩ばかりを持ったことであると思う。昔からデニスはこういうことをしてきた。たとえばセナプロ時代のセナ、99~01年頃のハッキネン、そして今のハミルトン。いずれも、冷遇される側のドライバーが痺れを切らして移籍している(クルサードはよく我慢したと思う)。もちろん、アロンソがまったく悪くないわけではないだろうが、やはりこの状況じゃあ同情の一つか二つか三つか四つもしたくなる。

いずれにせよ、アロンソの新天地での活躍を期待するばかりである。そして、ロンデニスも、少し考えてみたほうがいいだろう。ひとつの小さなものにこだわりすぎると、やがてもっと大きなものを失う事になる。

2007年11月 1日 (木)

祝!ブログ開設

はじめまして。simacherです。

今回、趣味を語る場(大げさか?)として、このブログを立ち上げさせていただきました。モータースポーツやゲーム関係,ペパクラなどを中心にやっていきたいと思います、よろしくお願いします。

「矢崎信次」のHNでMETMANIA(http://metmania.com)にて活動中。

リンクリスト

  • アカクテハヤイ フェラーリエフワン
    フェラーリミニカーコレクター兼ティフォシ、Shigeoさんのサイト。なんと1日1更新! Simacherにはとても真似できないっす。
  • F1ドライバーカタログ
    1950年からのF1レーサーをすべて網羅。結構充実していますが、最近は更新が止まっています。
  • METMANIA-FAN
    METMANIAさんのFANサイト。オリジナルのプチFシリーズは一見の価値あり。
  • METMANIA
    私のぺパクラの原点とも言えるサイト。ヘルメットやF1のペパクラは圧巻。